もう一つ、春の詩を。
2006年 04月 11日
決算のシーズンはとっくに終わったはずなのに、どういうわけか、血尿が出そうなくらいまだまだ忙しい。
殺す気か・・・・・。
さて、今回も春の詩を紹介します。
中原中也の次は萩原朔太郎なんていかがでしょう。
作品にもよるが、中也の詩はどこか遠くから残響が響いてくるような感じだが(そんなところが天才的)、朔太郎のは映画や悪夢のように視覚的に感じる。
下記の最初の詩はそういう匂いが比較的薄いものの彼の詩の多くは、麻薬なんかに手をつけなくともこの世界に存在しない、奇怪だけれど美しい幻を見せてくれる。
ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
をとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども、
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだいに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、
これではとてもあぶなさうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
―萩原朔太郎 『月に吠える』所収 『陽春』 より
ついでにもう一つどうぞ。
私は私の腐蝕した肉体にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴体からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。
―萩原朔太郎『蝶に夢む』 所収 『春の芽生』より
殺す気か・・・・・。
さて、今回も春の詩を紹介します。
中原中也の次は萩原朔太郎なんていかがでしょう。
作品にもよるが、中也の詩はどこか遠くから残響が響いてくるような感じだが(そんなところが天才的)、朔太郎のは映画や悪夢のように視覚的に感じる。
下記の最初の詩はそういう匂いが比較的薄いものの彼の詩の多くは、麻薬なんかに手をつけなくともこの世界に存在しない、奇怪だけれど美しい幻を見せてくれる。
ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
をとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども、
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだいに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、
これではとてもあぶなさうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
―萩原朔太郎 『月に吠える』所収 『陽春』 より
ついでにもう一つどうぞ。
私は私の腐蝕した肉体にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴体からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。
―萩原朔太郎『蝶に夢む』 所収 『春の芽生』より
by luchino001
| 2006-04-11 23:59
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