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by luchino001
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個人美術館のススメ 2(前編)

 今回は、「何必館・京都現代美術館」と共に僕がお勧めするプライべートな美術館「河井寛次郎記念館」について書きたいと思う。
 
 まず河井寛次郎という人について。
 河井寛次郎は、1890年(明治23年)、島根県に生まれ、1910年に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の 窯業科に入学して陶芸を学んだ。
 工業学校を卒業後、京都市立陶芸試験場へ入り釉薬(陶器のうわぐすり)の研究をした後に、京都の五条坂に窯を築き(鐘渓窯と名付けられた)、独立する。
 そして、長年にわたる創作活動を経て、1966年、76歳で生涯を閉じた。

 寛次郎の作風は大体3期に分けられる。
 第1期は、中国朝鮮の手法を驚くべき技巧で自在に操った作風だった。
 独立して翌年の1921年、東京の高島屋にて鐘渓窯で焼いた作品の初の個展を開き、その精緻な技術と独自の感覚が絶賛された。

 第2期は民藝運動に深く関わり合っていた時期である。
 1924年に寛次郎は柳宋悦を知り、『民藝』(民衆の手になる工芸品を指していう、民衆的工芸の略称)という言葉が生まれ、それに没頭していった。
 この時期の作品はいずれも素朴でシンプルなものが多い。

 第3期では圧倒的なほど自由で造形的な作品が作られていった。
 戦後の1949年、寛次郎はさらに自由な異なった角度からの造形に取り組みたいとの願望を強く持つようになり、作風不定形の世界に入る。
 土管や機関車の接続部など、あらゆるものから美を発見するようになり、それらをモチーフとした作品が作られた。
 60歳を越えても創作エネルギーは枯れることなく湧き続け、芸術家としての創造力は、この時期にピークに達したと言える。
 このころは陶芸だけでなく木彫りも製作するようになり、それは留まることなく発展し、土俗的というか、日本人の民族的な深層意識を己の内から引きずり出してきたような、独自の世界を展開していった。

 河井寛次郎は世界的にも評価が高く、民藝時代の作品「鉄辰砂草花丸文壷」がパリ万国博覧会で、自由な造形の作品「白地草花絵扁壷」がミラノ・トリエンナーレ展で、共にグランプリを受賞した。
 新・日曜美術館で放送されていたミラノ・トリエンナーレでの受賞のインタビューで、「まあ、花瓶として使えるかどうかは分かりませんけど」みたいなことを言っていたのを観て、少し笑えた。
 なぜか、その隣には棟方志功がいたような気がする。
 かなり仲が良かったらしい。

 で、その優れた芸術家・河井寛次郎の作品が鑑賞できる「河井寛次郎記念館」であるが、この美術館は(美術館といえるほど大きくないが)寛次郎が自分で設計した、アトリエ兼住居だった建物なのである。

つづく
by luchino001 | 2005-04-11 23:38 | 建築